春はお世話になった人を想う季節:ご馳走になった千円のポークソテーに涙する。

春はお世話になった人を想う季節でもあります。

私は現役大学受験に失敗し、親に頭を下げて、東京の美術大学受験予備校に通う決心をしました。

高校卒業とともに1人で大阪を離れ東京に引っ越しましたが、不安よりも志を持って一人暮らしできる喜びの方が大きかったのを覚えています。
わざわざ夜行列車で上京し、自らの東京進出の門出の気分に浸ったのでした(笑)

上京後の数日間、高校の先輩のアパートにお世話になりながら不動産屋を回りました。

「部屋で絵を描きたいので二間欲しい。家賃は二万五千円以内で、新宿にアクセスしやすいところありますか?」

今から35年前のことですが、当時ですらそんな安い物件は無く、どこの不動産屋さんを訪ねても、「お兄さん、東京にはそんな物件はないよ!」と断られてしまいました。

家賃は二万五千円以上は無理。授業のない日も絵を描きたいので二間は欲しい!

日も暮れて最後のつもりで入った不動産屋さんにも、けんもほろろに断られてしまいました。

しかし、私はどうしても引き下がるわけには行かず、なんとか探して欲しいと粘り続けました。

不動産屋さんも商売ですから、あれば喜んで紹介しますが、無いものはどうしようもないわけです。

不動産屋さんの仕事がどういったものかよくわからなかった私は、粘って交渉すればなんとか融通してくれると思って粘り続けました。

そして、ついに私は不動さんやを動かしたのです。

その不動産屋さんは、「ちょっと離れてしまうけどあるかもしれない」と言って、どこかに電話をかけました。

どうやら、他の不動産屋さんに電話をしている様子です。

「新宿からは少し離れるけど、都立家政駅にある不動産屋を紹介するから行ってみなさい。」とのことで、親切にも車で最寄り駅まで送ってくれました。

その不動産屋さんの名前は今でも忘れない「日昇不動産」です。(ネットでググったら今もありました。うれしい!)

Mさんというお兄さんが迎えてくれました。

Mさんは、私の事情をとても親身になって聞いてくださいました。
そして、「これしかない!」と言って1つの物件を紹介してくださいました。
6畳と4畳半、風呂なし、トイレは共同。
とっても古いアパートでしたが、私も「これしかない!」と直感で感じました。
でも、家賃は二万八千円。
三千円もオーバーしています。

「三千円のオーバーは私には厳しいです。なんとかなりませんか?」と、すがる思いでお願いしました。

すると、Mさんが大家さんに電話をかけて交渉をしてくださいました。
二万五千円にはなりませんでしたが、二万六千円にしてくれました。

「千円くらい節約すればなんとかなる!」

私は深々と頭を下げてお礼を言いました。

Mさんは、「良かったね!じゃあ、飯食いに行こう!お腹すいただろ!」と言いました。

厚かましくも、私は「はい!」と言って、誘われるままにご馳走になりました。

千円のポークソテーセットを頼みました。今思うと私は本当に厚かましい青年でした。

私は、その後何回Mさんにご馳走してもらったことでしょう?

日昇不動産は銭湯の向かいにありました。
銭湯に行く時に、Mさんとよくお会いしたのです。その度に「こんばんは」とご挨拶するのですが、「よし!飯食いに行こう!」と言ってポークソテーセットをご馳走してくださいました。

さすがの私も、厚かましさも度を越していると思い、溝口さんに見つからないようにそーっと銭湯の暖簾をくぐるのですが・・・たまに見つかるのです。

「なんだよ!水くさいなあ・・!」と声をかけられてはご馳走になりっぱなしでした。

一年後に大学入学が決まり、大学の近くの八王子に引っ越すことにしました。

お茶菓子を持って、Mさんにお世話になったお礼を言いました。
言葉にならない感謝の気持ちが込み上げてきて涙してしまったのを覚えています。

大学に入学してからも、もちろん度々当時のことを思い出しました。

「早く大成してお礼に行かなきゃ!」という気持ちになりながらもなかなか実現せずに時は過ぎました。

Mさんに初めてお会いしてから20年以上経ちました。

久しぶりに銀座での個展を開催した時でした。
私は、当時すでに新制作協会の会員でもあり、多摩美術大学の非常勤講師をしながら、芸術による教育の会で仕事も頑張っていたので、「今こそMさんをご招待しよう」と思い切って日昇不動産を訪ねてみることにました。

都立家政駅を降りて、当時を懐かしみながら日昇不動産へ向かいました。

私の全くの記憶違いなのでしょうか?
なんと!驚いたことに日昇不動産も無ければ、銭湯もありません。私が住んでいたアパートもありません。

一瞬、「えっ!あれは全て夢だったの?」と自分の記憶を疑ってしまいました。

でも、確かに当時の面影が所々に残っています。

私は、まさに浦島太郎状態になりながらも、近くを歩く人に恐る恐る訪ねて見ました。

「すみません!この近くに日昇不動産という不動産屋さんがあったと思うのですが、ご存知ないですか?」

すると、その不動産屋さんは近くの別の場所に引っ越したとのことです。お礼を言って、教わった場所に向かいました。

(それにしても不動産屋が動くか?)とつぶやきながら・・

おお!あったあった!
50メートルも離れてない。

中に入ってみると、Mさんは見当たりません。

「いらっしゃいませ!」少し年配の方が声をかけてきました。

「こんにちは!Mさんはいらっしゃいますか?こちらにまだお勤めですか?」

Mさんは随分前にお辞めになったとのこと、独立して東高円寺で不動産屋さんを経営なさっているとのことでした。
(さすがMさん!)

連絡先を伺い、早速電話をしました。

Mさんは、すっかり私のことを忘れていました。

私は、当時のことを話し、とにかくお礼がしたいから会って欲しいとお願いしました。

数日後、念願かなえてお会いすることができました。

立派なオフィスで出迎えてくださいました。
当時の思い出話をして感謝の気持ちをお伝えしました。

私がこうして頑張ってこられたのも、Mさんの励ましや応援があったからです。
必ず成功した姿を見せようという想いが信念になり、折れずに頑張りました。

Mさんの素敵なオフィスに私の作品を飾っていただけたら嬉しいと思い、作品をプレゼントしようと個展のご案内を差し上げました。

そして、Mさんは奥様とご一緒に私の個展に来てくださいました。

「Mさん、オフィスに一つプレゼントさせてください。」

すると、Mさんは奥様と顔を合わせ笑顔で喜んでいただき、遠慮深げに小さな作品をお選びになりました。
「あの立派なオフィスですから、どうぞもっと大きな作品を選んでください。」と私が言うと・・

「オフィス用の作品は是非購入したい」とおっしゃいました。

「それでしたら、その大きい方をプレゼントさせてください!」

私が何度お願いしても、Mさんは笑顔で、「オフィス用に一つ大きな作品を購入したいと思っていたから」と、大きな作品をご購入して下さいました。

私にとってのMさんは父親のようでもあり兄のようでもあり、大きな器をもった憧れの存在です。

こんな素晴らしい方に出会えたことは私の生き方に大きく影響しています。「こんな立派な人になれたらいいなあ」と50歳を過ぎて生まれ変わった3歳の私には、まさに子どもが思い描くような憧れの人です。

芸術による教育の会は、先生が60人以上、生徒が3600人在籍しています。本会のGMとして背負っている責任は大きいなあ・・・・

本会の社長の寺尾も私にとっては父親のようでもあり兄のようでもある素晴らしい人格者です。やはりトップになる人は器の大きさが違います。人がついてくるのには確かな理由がありますね。

お引越しシーズンになると、必ずMさんを思い出します。

ご馳走になったポークソテーを思い出します。

Mさん、ありがとうございます。

「情けは人の為ならず」

情けは回り回って自分の所に帰ってくる・・・私は、溝口さんへのご恩を返せていません。

次の私の目標は、Mさんの会社が施工した一戸建てを購入することです。

都内にお住いの皆様、または都内にお引っ越しをお考えの皆様へ
ぜひ、「株式会社 中央建設」をごひいきください。
私が今できるささやかなご恩返しです。


↓よろしかったら、下の4つのバナーのいくつかポッチっとクリックお願いします。みなさまの応援により、ルーティンワークが苦手な私でも続けていけるモチベーションになります。




にほんブログ村 美術ブログ 美術教室・学習へにほんブログ村 子育てブログ 子供の習い事(教室・業者)へ
FC2 Blog Ranking

PROFILE

屋嘉部 正人
屋嘉部 正人芸術による教育の会GM
沖縄生まれの大阪育ちの千葉県野田市在住
多摩美術大学絵画学科油画専攻卒業
横浜美術大学絵画コース非常勤講師

大学四年生から芸術による教育の会で美術教室教師としてアルバイトを始め、大学卒業とともに同会に入社。

美術家として個展やグループ展など多数発表を続け、新制作協会に所属。

50歳を機に人生をリセット
・右利きを辞めて左利きとして生まれ変わる
・やりたくてやらなかったことを全てやる
52歳で新制作協会会員を退会
53歳でこれだけはやめられない一番好きなお酒をやめる
・芸術による教育を全国に広める伝道師として芸術による教育の会GMとなる
・「紙コップのインスタレーション」を各地で実施。